『崖の上のポニョ』では、宗介が母親を「お母さん」ではなく「リサ」と呼びます。親に向かって名前を呼ぶ姿に、「どうして呼び捨てなんやろ?」と引っかかった人もいるのではないでしょうか。
その呼び方を考える手がかりは、リサが宗介を、5歳でも一人の人格を持った相手として認めていることです。公開当時、鈴木敏夫プロデューサーも、宗介とリサの関係について、この点に触れています。
ただし、これは「宗介が名前で呼ぶようになった家庭内の出来事」が説明されているという意味ではありません。また、鈴木プロデューサーによる説明と、宮崎駿監督本人が明言した制作意図も、分けて受け取る必要があります。
この記事では、確認できる制作関係者の発言を手がかりに、宗介の呼び方が二人の親子関係をどう見せているのかを考えます。
※ここから『崖の上のポニョ』の物語の一部に触れます。
宗介がリサを呼び捨てにする理由は?制作関係者の説明
鈴木敏夫は「一人の人格として認める関係」に触れている
2008年の完成報告会見を伝える映画.comの記事では、宗介がリサを呼び捨てにすることに関連して、鈴木敏夫プロデューサーの発言が紹介されています。
その説明の中心にあるのは、リサは、相手が5歳の宗介であっても、一人の人格を持った存在として認めているという点です。鈴木プロデューサーは、それが宮崎監督の描きたかったことではないか、という趣旨で話しています。
出典:映画.com「『崖の上のポニョ』を読み解く4大キーワード」完成報告会見での鈴木敏夫の発言
ここで大切なのは、鈴木プロデューサーも、監督の意図について推し量る形で話していることです。「宮崎監督が、呼び捨ての理由をこう断言した」と置き換えることはできません。
それでも、制作に携わったプロデューサーが、母子の呼び方を尋ねられる文脈で、子どもの人格を尊重する関係に触れたことは、作品を読むうえで具体的な手がかりになります。
単に「変わった呼び方をする家族」と見るより、宗介の言葉をリサがどう受け止めているかに目を向けると、二人の距離が見えてきます。
名前で呼び始めたきっかけまでは分からない
一方、映画の中では、宗介がいつからリサを名前で呼び始めたのか、そのきっかけを説明する場面はありません。
「父親の呼び方をまねしたのではないか」「リサが名前で呼ぶように教えたのではないか」と想像することはできます。ただし、それらを確認済みの設定として扱うことはできません。
呼び方を身につけた経緯と、その呼び方が作品の中で伝える関係性は、別の問いです。前者が説明されていなくても、後者は二人のやり取りから考えられます。
この記事でも、家庭内の過去を補うのではなく、実際に描かれた宗介とリサの関係を軸に読み解いていきます。
宗介は父親の耕一も名前で呼んでいる
宗介の呼び方を考えるとき、リサだけに注目すると見落としやすいことがあります。宗介は、父親のことも「耕一」と呼んでいます。
つまり、母親だけを特別に名前で呼んでいるわけではありません。この点からも、リサへの呼び捨てだけを取り上げて、母親への反抗や軽視の表れと決めつけるのは難しいでしょう。
公開当時のシネマカフェの会見記事でも、鈴木プロデューサーは、宗介が親を名前で呼ぶことを、本作の特徴的な母子の描き方に関連づけて語っています。
出典:シネマカフェ「鈴木敏夫プロデューサーが語る『崖の上のポニョ』」
「リサ」「耕一」と名前が並ぶことで、宗介の周りには、母親と父親という役割を持つ二人がいるだけでなく、それぞれの名前と気持ちを持った人がいるようにも見えます。
これは作品から読み取れる解釈ですが、リサの描写とはよくつながります。リサは宗介を世話する一方で、耕一の帰宅を待ち、帰れないと分かれば感情を表に出す人物でもあるからです。
母親だからといって、いつでも穏やかで、寂しさも不満も見せないわけではない。その姿を宗介も身近で受け止めています。
「お母さん」と呼んだら個人として見ていない、という話ではありません。ただ、この映画の名前での呼び合いには、家族の役割だけでは収まらない、その人自身の存在を感じさせる働きがあるのではないでしょうか。
呼び捨てでも、宗介はリサを大切にしている
「呼び捨て」という言葉には、相手をぞんざいに扱う響きがあります。けれど、名前に敬称をつけないことと、相手への愛情がないことは、同じではありません。
宗介は、耕一が帰れなくなって落ち込むリサを気遣います。また、リサの姿が見えなくなると、ポニョと一緒に探しに出ます。二人の関係を考えるうえでは、呼び方とともに、こうした行動を見ることが大切です。
名前で呼んでいるからといって、宗介がリサをどうでもいい相手だと思っているようには描かれていません。むしろ、リサの気持ちや不在が、宗介にとって大きな意味を持っています。
宗介の「リサ」という呼び方は、母親を遠ざける言葉というより、身近な大切な人へまっすぐ呼びかける言葉として読むことができます。
ここは、呼び方だけでは測れへんところなんよな。丁寧な呼び方でも気持ちがすれ違うことはあるし、名前で呼ぶ関係の中にも、気遣いや信頼はある。宗介とリサの場合は、その中身が行動として描かれています。
ただし、二人が親子であることまで消えるわけではありません。宗介がリサを気遣う場面があっても、宗介は守られる必要のある5歳の子どもです。リサも、食事を用意し、子どもたちを落ち着かせるなど、大人として世話をしています。
そのため、二人の関係を「完全に対等な友達同士」と言い切ると、今度は親子としての大切な部分を見落としてしまいます。子どもの考えを尊重することと、大人が保護する責任を持つことは、両立するはずです。リサは宗介を信頼しているが、大人扱いしているわけではない
リサと宗介の関係を考えるうえで印象的なのは、ポニョが人間の姿で家にやってきたあとの場面です。リサは、不思議な出来事を前にしても、まず子どもたちを家に迎え入れ、体を温め、食事を用意します。
宗介がポニョを大切にしていることを受け止めながら、生活の面ではリサが二人を支えています。宗介の思いを認めることと、子どもの世話をすることが、同じ場面の中にあるのです。
ここから読み取れるのは、宗介の言葉を、幼いからという理由だけで退けない姿勢です。宗介にとってポニョとの出会いが大切なら、リサもその気持ちを受け止める。名前で呼び合う距離の近さは、こうしたやり取りとも重なります。
ただし、子どもを信頼することには、難しさもあります。嵐の夜、リサが「ひまわりの家」を気にかけて外へ向かい、宗介とポニョが家に残る展開には、不安を覚える余地があります。
この場面まで「対等な親子だから問題ない」と説明してしまうと、宗介が幼い子どもであることが抜け落ちます。リサの行動力や他者への責任感と、子どもを残して出かけることへの心配は、両方あってよいはずです。
リサと宗介の関係の魅力は、すべての判断が理想的だからではなく、信頼し合っていても不安や危うさが残るところにもあるのではないでしょうか。
「信じて任せる」と「まだ大人が引き受けるべきことがある」の境目は、呼び方一つでは決まりません。映画の二人を考えるときも、その違いは残しておきたいところです。
しっかりした宗介にも、リサを必要とする幼さがある
宗介は、ポニョを助け、相手を気遣い、自分で行動しようとする少年です。そのため、リサと名前で呼び合う姿も、幼いながら自立した人物としての印象につながります。
けれど、宗介がいつでも落ち着いていられるわけではありません。リサを探す途中、車を見つけても本人がいないと分かる場面では、宗介の不安が表に出ます。
それまで頼もしく振る舞っていた宗介にも、母親に会いたい、そばにいてほしいという気持ちがある。ここで、名前で呼ぶ関係であっても、宗介にとってリサが安心を求める相手であることが伝わってきます。
この場面を踏まえると、「リサ」と呼ぶことを、母親から精神的に離れている証拠と考えるのは難しいでしょう。自分で判断できることがある一方で、不安になれば支えを必要とする。その両方が宗介の中にあります。
しっかりしている子を見ると、大人はつい「この子なら大丈夫」と思ってしまう。でも、できることが多いのと、寂しくならないことは別なんよな。宗介の描写は、その違いにも目を向けさせます。
リサへの呼び方は変わらなくても、その声が置かれる状況によって、受け取る印象は変わります。日常の呼びかけには親しさがあり、探す場面には切実さがある。大切なのは「お母さん」という言葉を使うかどうかだけではなく、宗介が誰を求めているかなのでしょう。
『ポニョ』は親を名前で呼ぶことを勧めているのか?
ここまでの描写や制作関係者の説明から、現実の家庭でも親を名前で呼ぶべきだ、という結論を出すことはできません。
鈴木敏夫プロデューサーの説明は、リサが宗介の人格を認めていることに触れたものであり、すべての家庭に同じ呼び方を勧める話ではありません。
「お母さん」「ママ」と呼ぶ親子にも、互いの考えを大切にする関係はあります。反対に、名前で呼んでいても、それだけで子どもの意思が尊重されているとは限りません。
映画から考えられるのは、呼び方の正解よりも、その呼びかけに相手がどう応じるかです。
子どもが話したことを聞くのか。子どもの気持ちと、大人が決めるべきことをどう扱うのか。宗介とリサの関係には、そうした問いがあります。
二人の距離の近さを魅力に感じても、呼び方をそのまままねする必要はないでしょう。むしろ、なぜこの二人の会話が親しく見えるのかを考えるほうが、作品の中身に近づけるのかもしれません。
まとめ|「リサ」という呼び方から見える親子の距離
『崖の上のポニョ』で宗介が母親を「リサ」と呼ぶことについては、鈴木敏夫プロデューサーが、リサは5歳の宗介も一人の人格として認めている、という趣旨の説明をしています。ただし、名前で呼び始めた経緯が、作中で説明されているわけではありません。
宗介は父親も「耕一」と呼びます。そして、リサを気遣い、不在を心配し、会うために行動します。呼び方だけを取り上げて、母親への愛情や敬意が薄いと判断することはできないでしょう。
宗介の「リサ」呼びは、親子としてのつながりを保ちながら、相手を一人の人として身近に感じている関係を表すものとして読むことができます。
同時に、宗介は母親の支えを必要とする子どもでもあります。人格を尊重することと、大人と同じ責任を負わせることは違う。その両方を踏まえると、二人の関係をより丁寧に受け取れそうです。
呼び方が気になって見始めた親子に、気遣いも、信頼も、不安も見えてくる。「リサ」という短い呼びかけは、そんな二人の関係を考える入り口になっています。

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