『火垂るの墓』原作と映画の違いは?語り方と描写を比較

『火垂るの墓』の原作小説とアニメ映画は、どこが違うのでしょうか。同じ兄妹の物語でも、文章で読む場合と、声や動きを伴う映像で見る場合では、受け取る印象が変わります。

大きな違いは、映画が死者となった清太を登場させ、生前の自分たちを見つめる構造を加えていることです。兄妹がたどる物語だけでなく、その出来事をどの位置から見せるかにも、映画独自の工夫があります。

この記事では、野坂昭如の原作小説と、高畑勲が脚本・監督を務めた1988年のアニメ映画を比較します。語り方の違いを中心に、文章と映像がそれぞれ何を伝えているのかを整理します。

※ここから原作小説とアニメ映画『火垂るの墓』の結末に触れます。

『火垂るの墓』の原作と映画は、誰がつくった作品?

原作は、野坂昭如の短編小説『火垂るの墓』です。映画はその小説をもとに、高畑勲が脚本と監督を担当しています。

原作・脚本・監督の情報は、スタジオジブリ公式の作品ページで確認できます。

比較する際に気をつけたいのは、原作小説、アニメ映画、野坂自身の実体験を、同じものとして扱わないことです。

小説には作者の戦争体験が背景にありますが、実体験をそのまま記録した文章ではありません。そして映画は、その小説を映像作品として構成したものです。

「実際の野坂はどうだったか」という話を、そのまま「原作の清太と映画の清太の違い」に置き換えると、比較する対象がずれてしまいます。ここでは、作品としての小説と映画に注目します。

最も大きな違いは、死者となった清太の視点

原作は清太を外側から語り、映画は清太自身の声で始まる

原作の冒頭では、清太が死んだことが、清太という人物を外側から語る文章で示されます。一方、映画は、清太自身が自分の死を告げる声から始まります。

この違いについて、アニメーション評論家・藤津亮太は、原作の清太についての記述を、映画が本人の語りへ置き換えていると解説しています。

出典:文春オンライン・藤津亮太による原作と映画の比較解説

どちらも早い段階で清太の死に触れますが、死を語られる人物なのか、死後に語り始める人物なのかという違いがあります。

映画の冒頭を「主人公の死を先に明かした」とだけ捉えると、この差を見落としてしまいます。清太は、これから起こる出来事の登場人物であると同時に、その結末をすでに知っている存在としても置かれているのです。

映画には、生前の自分たちを見つめる兄妹が登場する

映画では、死者となった清太と節子の姿が描かれ、生きていたころの兄妹の時間と重なります。こうして過去の自分たちを見つめる構造は、原作にはない映画独自のものとして、藤津の解説でも指摘されています。

ここで分けたいのは、「死者が登場する」という設定と、「それをどう受け取るか」という解釈です。兄妹がなぜそこにいるのかを、未練や成仏といった言葉だけで確定する必要はありません。

表現上の働きとして考えるなら、生きている清太がまだ知らない結末を、死者となった清太と観客は知っているという関係が生まれています。

そのため、兄妹が楽しそうにしている時間にも、見ている側は行く末を忘れにくくなります。目の前の喜びと、その先にある死が、同じ場面のなかで重なって感じられる構造です。

語り方が変わると、清太の見え方はどう変わる?

映画の清太には、妹と暮らしている少年としての姿と、その時間を振り返る死者としての姿があります。

この二重の見せ方によって、観客は清太の行動をその場の気持ちに沿って受け止めながら、同時に、少し離れた位置から考えることもできます。

たとえば、兄妹だけで過ごす時間には、二人にとっての楽しさがあります。しかし結末を知っている観客は、その楽しさだけで安心しきれません。「この暮らしを続けて大丈夫なのか」という問いが残ります。

これは、清太の行動をすべて肯定することとも、結果から一方的に責めることとも違う見方につながります。

そのときの清太にはどう見えていたのか。その時間を外側から見ると、何が見えるのか。映画では、この二つの位置を行き来しながら兄妹を見つめられると考えられます。

ただし、これは語りの構造から読み取れる効果についての考察です。高畑監督が一つの受け取り方だけを求めていた、と断定するものではありません。

原作の文章と映画の映像では、何に注目するとよい?

原作と映画を比較するときは、場面があるかないかだけでなく、同じ出来事がどのように伝えられるかを見ると、違いが分かりやすくなります。

原作について、新潮社の読書情報誌『波』に掲載された南陀楼綾繁の書評では、一文が長く続く文体が紹介されています。

出典:新潮社『波』「二つの『火垂るの墓』とふたりの作家」

文章を読むときには、語りの流れに沿いながら、人物の様子や周囲の光景を頭のなかで組み立てていきます。一方、映画では、声、表情、動き、音、場面の長さが、具体的な形で示されます。

たとえば、人物が何も話さない時間も、映像では続いていきます。返事がないこと、視線が合わないこと、相手を待つ間。その時間そのものが、関係や気持ちを考える手がかりになります。

文章のほうが詳しい、映像のほうが分かりやすい、と一律には決められません。何が言葉で示され、何が姿や間から読み取れるようになっているかに注目すると、同じ物語でも異なる表現として比較できます。映画では、声や動きが兄妹の年齢を伝える

小説では、人物の年齢や行動を文章として読み取ります。映画では、それに加えて、話す速さや声の調子、体の動きからも人物像を受け取れます。

とくに節子は、四歳という年齢を知識として理解するだけでなく、幼い声やしぐさを伴う存在として目の前に現れます。何かを欲しがるときの話し方や、兄と過ごすときの動きが、節子の幼さを具体的に伝えます。

日本テレビの公式作品紹介では、清太と節子の声に関西地区出身者を起用し、節子を映画公開当時五歳の白石綾乃さんが演じたことも紹介されています。

これは、原作に幼さが描かれていないという意味ではありません。文章で想像する幼さと、実際に聞こえる声や動きとして受け取る幼さでは、伝わり方が異なるということです。

映画の節子が幼く見えるほど、そのそばにいる清太の立場も考えさせられます。妹からは頼られていても、清太自身は十四歳です。声と姿を伴って二人が並ぶことで、兄が保護者の役割を担おうとする負担も見えやすくなります。

描写を比較するときは「映画だけの場面」と決めつけない

原作と映画の違いを調べる際には、印象に残った場面を、そのまま映画独自の追加だと思い込まないことも大切です。

映像で強く記憶に残っていても、原作にも対応する記述があるかもしれません。また、原作では短く語られる出来事が、映画では会話や動作を伴う場面として広がっている場合もあります。

比較には、次の三つを分ける視点が役立ちます。

  • 原作にはなく、映画で新たに加えられたもの。
  • 原作にもある出来事を、映画が具体的な場面にしたもの。
  • 出来事は共通していても、語る順番や見せる位置が変わったもの。

今回確認した比較解説から、明確な違いとして挙げられるのは、映画が死者となった清太の視点を組み込み、生前の兄妹を見つめる構造をつくったことです。

個々の生活場面については、「原作にない」と断定する前に、該当箇所を確かめる必要があります。場面の印象が違うことと、場面そのものが追加されたことは、同じではありません。

原作小説と、野坂昭如の実体験も分けて考えたい

『火垂るの墓』には、野坂昭如自身の戦争体験が背景にあります。ただし、原作小説も、現実の出来事をそのまま記録したものではありません。

新潮社『波』の「二つの『火垂るの墓』とふたりの作家」では、野坂の実体験と小説の兄妹像が一致するわけではないことが、本人の文章を交えて説明されています。

そのため、「実際の野坂は清太と違う行動をした」という話は、作者と登場人物の比較です。それだけでは、原作小説と映画の違いを説明したことにはなりません。

比較する対象考える内容
実体験と原作小説作者の経験が、どのように物語へ組み替えられたか
原作小説とアニメ映画語り方や場面の表現が、映像化によってどう変わったか

この区別がないと、映画が変更したと思っていた内容が、実は小説の段階ですでに創作されていた、という混同が起こります。

清太を考察するときも、作者本人の告白をすべて清太の隠された本心として扱うことはできません。人物の気持ちは、それぞれの作品に描かれた言動から考えたいところです。

原作と映画は、どちらが悲しい作品なのか

同じ兄妹の物語でも、読んだときと見たときで、つらく感じる箇所が違うことはあるでしょう。ただ、どちらのほうが悲しいと一律に順位をつける必要はありません。

文章では、気になった一文で立ち止まり、前の記述へ戻れます。映画では、声や音を伴いながら、場面が一定の時間をかけて進みます。受け手が物語と向き合うリズムも異なります。

映画で節子の姿が強く残る人もいれば、小説の語りのなかで清太の置かれた状況を考え込む人もいるはずです。それは、どちらかが不足しているということではありません。

同じ結末を知っていても、そこへ至る時間をどう体験するかで、兄妹の見え方は変わります。

「違いを探す」と聞くと、変更された設定を数えたくなります。でも、同じ出来事がなぜ違う重さで届くのかを考えるのも、比較の面白さではないでしょうか。

まとめ|大きな違いは、物語を見つめる位置にある

『火垂るの墓』の原作小説とアニメ映画を比較するうえで、大きなポイントになるのは語りの構造です。

原作が清太の死を外側から語るのに対し、映画は清太自身の声で始まり、死者となった兄妹が生前の自分たちを見つめる構造を取り入れています。この違いは、藤津亮太による比較解説でも指摘されています。

また映画では、声、表情、動き、沈黙の長さが加わり、兄妹の年齢や関係を具体的に受け取れます。一方、小説では、文章の流れを追いながら、人物と出来事を読み取っていきます。

原作と映画の違いは、何が起きるかだけでなく、誰の位置から、どんな表現でその出来事に向き合うかにもあります。

どちらか一方を正解にするより、同じ兄妹がそれぞれの表現でどう見えるのか。その違いに目を向けると、『火垂るの墓』をもう一段深く考える手がかりになります。

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