『火垂るの墓』の冒頭で、清太が座り込んでいるのはどこの駅なのか。三宮駅という説明を見かけても、阪急なのか、現在のJRなのか、分かりにくいところがあります。
清太が亡くなる場所は、神戸の三ノ宮駅構内です。映画の冒頭に登場する場所について、神戸市立博物館で開催された「山本二三展」の関連ブログでは、現在のJR三ノ宮駅のコンコースと説明されています。
ただし、作中の時代に現在の「JR」という会社があったわけではありません。この記事でいう「JR三ノ宮駅」は、現在の場所を分かりやすく示すための呼び方です。
駅の場所を整理したうえで、なぜ清太の死が冒頭に置かれているのか、人の行き交う駅で亡くなる描写から何を受け取れるのかを考えていきます。
※ここからアニメ映画『火垂るの墓』の冒頭と、清太・節子の結末に関するネタバレを含みます。
清太が死んだ場所は、現在のJR三ノ宮駅にあたる場所
清太が最期を迎える駅を確認する手がかりになるのが、神戸市立博物館の「山本二三展」に関連して公開された、作品の舞台を紹介する記事です。
山本二三さんは『火垂るの墓』の美術監督を務めた人物です。その展覧会の関連ブログでは、冒頭で衰弱した清太が座り込んでいる場所を、JR三ノ宮駅のコンコースと紹介しています。
参考:「山本二三展」関連ブログ:『火垂るの墓』のロケ地を巡ろう【御影編】
したがって、「清太が死んだ場所はどこ?」という疑問には、神戸の三ノ宮駅構内で、現在のJR三ノ宮駅のコンコースにあたる場所と答えるのが分かりやすいでしょう。
ここで気をつけたいのは、駅の場所が確認できることと、現在の構内で作中の位置を一点まで特定できることは別だという点です。
関連ブログは2011年に公開された記事で、当時の駅の写真と、天井のアーチや柱についての説明が掲載されています。その記述だけを根拠に、現在もまったく同じ状態で残っているとまでは断定できません。
この記事では、特定の柱や改札口を「ここが清太の亡くなった地点」として案内することは避け、資料で確認できるコンコースという範囲で整理します。
「三宮駅」と「三ノ宮駅」はどう読めばいい?
清太の亡くなった場所を調べると、「三宮駅」「三ノ宮駅」という二つの表記が出てきます。この表記の違いが、分かりにくさの一因になっています。
作品についての説明では、地域名に近い形で「三宮」と書かれている場合があります。一方、今回確認した展覧会関連の記事では、具体的な場所として「JR三ノ宮駅」と記されています。
この記事では、地域を指すときは「三宮」、現在のJRの駅を指すときは「三ノ宮駅」として区別します。
また、神戸の三宮には複数の鉄道の駅が集まっています。単に三宮という地名が出てきただけで、阪急の駅だと決めることはできません。
作品内には鉄道に関係する場面がほかにもありますが、別の場面の線路やホームと、清太が座り込んでいる駅構内は、分けて確認する必要があります。
名前が似ているからこそ、「三宮にある駅の話やな」で止めず、どの場面を、どの資料が説明しているのかを見ると整理しやすくなります。
冒頭の駅の場面は、兄妹の物語の行き着く先を示している
『火垂るの墓』は、清太が衰弱して駅に座り込んでいる場面から始まります。その後、物語は時間をさかのぼり、清太と節子が暮らしていた日々を描いていきます。
つまり、冒頭の駅の場面は、これから起こる出来事の出発点というより、兄妹がたどる物語の行き着く先を先に示す場面です。
この構成によって、見る側は、清太が助かるかどうかだけを追うことができなくなります。すでに最期を示されたうえで、そこに至るまでに何があったのかを見つめることになるからです。
「どうなるのか」という疑問に加えて、「どうして、ここまで追い詰められてしまったのか」という問いが生まれる。冒頭には、そんな働きがあると考えられます。
ただし、これは物語の構成から読み取れることであり、監督本人の発言として意図を断定するものではありません。
日本テレビの公式紹介でも、本作は、戦争末期から戦後の混乱期を生きる14歳の清太と4歳の節子を描いた作品として説明されています。駅の場面だけを切り取るのではなく、二人の暮らしが失われていく過程とつなげて考えることが大切です。
人が行き交う駅なのに、清太は孤立している
清太が最期を迎えるのは、誰も来ない山奥や、閉ざされた部屋ではありません。人が行き交う駅の構内です。
展覧会関連ブログでも、冒頭の場所は、人の行き交うコンコースとして紹介されています。この場所の性質を踏まえると、清太の孤立がいっそう際立って見えます。
近くに人がいることと、誰かに支えてもらえることは同じではありません。人の流れの中にいながら、生活を立て直すためのつながりを持てない。その隔たりを、駅という場所に読み取ることができます。
もちろん、この場面だけで、周囲の人全員の事情や気持ちまでは分かりません。「誰もが冷たい人だった」と一括りにするのも、作品の描写を超えた判断になります。
それでも、幼い妹を守ろうとしてきた14歳の少年が、最後には駅で動けなくなっている。その状況は、本人の気持ちの強さだけでは生き抜けなかった現実を考えさせます。
人がたくさんいる場所で、助けを必要とする一人が取り残されている。その隔たりが、冒頭の駅の場面の重さにつながっているのかもしれません。
駅名が分かると、遠い物語だった場面が、実際の街と結びつきます。けれど、場所を知ったところで答えが出るわけではないんよな。なぜ、その場所まで清太が一人でたどり着くことになったのか。そこから先を考えるためにも、冒頭と、その後に描かれる兄妹の日々をつなげて見る必要があります。清太が駅にいる理由は、そこに至る生活の変化とつながっている
清太が亡くなる場所は三ノ宮駅ですが、兄妹が暮らしていた場所まで三宮駅だったわけではありません。物語の舞台を整理すると、冒頭の意味も分かりやすくなります。
日本テレビの公式紹介によると、清太の家は御影にあり、神戸空襲で焼けてしまいます。その後、兄妹は西宮の親戚の家へ身を寄せ、やがてそこを出て横穴壕で暮らし始めます。
家、親戚の家、横穴壕、そして冒頭に示される駅。場所の移り変わりに注目すると、清太たちが安心して暮らせる場所から離れていく過程が見えてきます。
ただし、清太が三ノ宮駅を選んだ具体的な理由や、そこへ向かう道中の気持ちまで、今回確認した資料から断定することはできません。「誰かを待っていた」「ある目的で駅へ来た」といった説明を、確定した設定として付け加えるのは避けたいところです。
確認できるのは、冒頭の清太が、家族と暮らす家でも、兄妹で暮らした横穴壕でもなく、駅の構内にいるということです。
人が移動するための場所に、動けなくなった少年が座っている。この対照から、清太には次に向かえる生活の場がなくなっているようにも感じられます。これは場所の描かれ方からの考察ですが、駅を単なる背景として見過ごせない理由の一つでしょう。
清太の死を先に知ることで、その後の場面の受け止め方が変わる
冒頭で清太の最期を示されたあとに見る兄妹の日常は、結末を知らずに見る場合とは違って感じられます。
例えば、公式あらすじにも紹介されている、横穴壕で工夫をしながら暮らす様子や、蚊帳の中に蛍を放つ場面です。二人にとって楽しい時間があったとしても、見る側は、冒頭の駅につながる未来をすでに知っています。
そのため、穏やかなひとときにも、この暮らしがいつまで続くのかという不安が重なります。楽しさが描かれるほど、失われるものの具体的な姿が見えてくるとも考えられます。
ここで、冒頭に死が示されているから、途中の出来事には意味がないと考える必要はありません。むしろ、駅で亡くなる少年にも、妹と過ごした時間があり、守りたかった暮らしがあったことを、その後の物語が伝えていきます。
最初は駅に座り込む一人の少年として見えていた清太が、物語を通して、妹の兄であり、家族を失った14歳の子どもとして見えてくる。この見え方の変化に、冒頭から振り返る構成の重みがあります。
駅の場面だけなら、清太がどんな日々を送ってきたのかは分かりません。けれど、その後の暮らしを知ると、同じ冒頭の場面にも、そこへ至るまでの時間が重なるんよな。
映画の場所と、現実の出来事を混同しないために
実在する駅が舞台でも、清太本人の史跡とは限らない
三ノ宮駅が実在することで、映画の場面を現実の街と結びつけて考えることができます。ただし、作品に登場する人物の出来事を、そのまま現地で起きた個人の記録として扱うことはできません。
日本テレビの公式紹介では、原作は野坂昭如さんが自身の経験を基に執筆した小説と説明されています。経験を基にした作品であることと、清太の行動や最期がすべて実際の出来事と一致することは別です。
したがって、現地の柱を見て「ここで実在の清太が亡くなった」と説明するのは適切ではありません。映画の舞台としての場所と、歴史資料で確認できる事実は、分けて考える必要があります。
現在の柱や改札口を特定する場合は、別の確認が必要
今回参照した展覧会関連ブログは、2011年当時の駅の様子を紹介し、天井や柱に作品の風景と通じる特徴があると説明しています。
ただ、その記事だけでは、現在のどの柱が作中の位置に対応するのか、駅の改修を経てどの部分が残っているのかまで確認できません。
場所を訪れる場合も、「映画の冒頭と関係する駅」と捉える範囲と、「この地点が作中の位置」と断定する範囲は分けたいところです。確かめられない細部を埋めなくても、実際の街に根ざした背景が描かれていることは伝わります。
まとめ|清太が亡くなるのは三ノ宮駅の構内
『火垂るの墓』で清太が死んだ場所は、神戸の三ノ宮駅構内です。山本二三展の関連ブログでは、冒頭で清太が座り込んでいる場所を、現在のJR三ノ宮駅のコンコースと説明しています。
一方、現在の特定の柱や改札口まで、今回の資料だけで断定することはできません。また、原作小説とアニメ映画、実在の街と創作上の人物の出来事も、混同しないことが大切です。
冒頭の駅は、清太の最期を示す場所であると同時に、その後に描かれる兄妹の日々を、失われた暮らしとして見つめる入口になっています。
場所の名前が分かったあとには、そこにいた少年の時間へ目を向けたいところです。人の行き交う駅に座り込む清太にも、家があり、家族との暮らしがありました。その一人分の日々を描くことで、映画の冒頭は、駅名だけでは説明しきれない場面になっているのではないでしょうか。

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