『火垂るの墓』「埴生の宿」はどの場面で流れる?曲と物語を紹介

『火垂るの墓』の終盤に流れる、美しい歌声。聞き覚えのある旋律なのに、日本語の歌ではなかったため、曲名が気になった方もいるのではないでしょうか。

流れているのは、日本で「埴生の宿」として知られる「Home, Sweet Home」です。映画では、アメリータ・ガリ=クルチが歌う録音が、蓄音機から流れます。

使われるのは、終戦後、池の向こうの家に戻った娘たちがレコードをかける場面です。歌はその場面だけで終わらず、元気だったころの節子を映す一連の映像へ続いていきます。

この記事では、1988年公開のアニメ映画を対象に、曲が流れる場面と歌手、そして家や暮らしをめぐる物語とのつながりを整理します。

※ここから『火垂るの墓』の結末までネタバレします。

「埴生の宿」が流れるのは、終盤の蓄音機の場面

「埴生の宿」は、節子が亡くなったあとの終盤に流れます。池の対岸の家へ戻ってきた娘たちが蓄音機でレコードをかけ、そこから歌声が聞こえてきます。

つまり、最初から登場人物には聞こえない背景音楽として始まるのではありません。物語のなかにある蓄音機を、音の出どころとしていることが、この場面の特徴です。

映画でガリ=クルチの「Home, Sweet Home」が使われ、蓄音機から流れる設定であることは、岩波書店の連載「ジブリと音楽」でも確認できます。

出典:web岩波「鈴木敏夫 × 田家秀樹 ジブリと音楽」第3回

やがて映像は、元気だったころの節子の姿へ移ります。壕の周りで遊んだり、日々を過ごしたりする節子が映し出される間も、歌は続きます。

このため、「最後に流れる曲」と覚えている方もいるでしょう。ただし、現代の街並みを映す最終場面や、エンドロールの音楽と、すべてひとまとめにしないほうが位置をつかみやすくなります。

蓄音機から始まり、節子が生きていた時間の映像へつながる曲として覚えると、映画のどこで流れたのかを整理できます。

映画の歌手はアメリータ・ガリ=クルチ

作中で聞こえるのは、イタリアの声楽家、アメリータ・ガリ=クルチの歌声です。日本語の「埴生の宿」を歌っているのではなく、英語の「Home, Sweet Home」が使われています。

確認したい項目内容
日本で知られる曲名埴生の宿
作中で使われる歌Home, Sweet Home
歌手アメリータ・ガリ=クルチ
作中の音の出どころ蓄音機で再生されるレコード

旋律には聞き覚えがあるのに、学校などで覚えた日本語の歌詞とは違う。そのため、別の曲だと思った方もいるかもしれません。

また、『火垂るの墓』の音楽を担当した間宮芳生と、この録音の歌手は別です。映画のためにつくられた音楽と、すでに存在していた歌の録音を使うことは、分けて考える必要があります。

間宮芳生の音楽担当は、スタジオジブリ公式の作品情報で確認できます。「埴生の宿」は、映画のなかで使われる既成曲として捉えると分かりやすいでしょう。

なぜ蓄音機から流れるのか|暮らしの音として始まる歌

この場面では、レコードをかけて音楽を楽しむ人たちがいます。その人たちにとっては、家へ戻り、好きな音楽を聞く時間です。

一方、観客はすでに、清太と節子の生活がどうなったかを知っています。同じ土地に、家へ戻る人がいる。その近くで、帰る家を失った兄妹の物語が進んでいた。この違いを、蓄音機の歌声が結びつけているように受け取れます。

ここで、レコードを聞く娘たちを、兄妹を苦しめた人物として決めつける必要はありません。彼女たちが清太と節子の事情を知っていると断定できるわけでもありません。

同じ終戦を迎えても、そこから暮らしを取り戻す人と、命を失った人がいる。その隔たりを考える手がかりとして、日常のなかから聞こえる音楽が置かれていると読めます。

悲しい場面に悲しい音楽を重ねるだけなら、受け取る感情はもっと一方向になるかもしれません。しかしここでは、誰かにとっての穏やかな時間の音が、兄妹の喪失と重なって聞こえます。

元気だった節子の姿に重なることで、何が変わる?

節子の死を知ったあとに、生きていたころの姿が映し出される。その順番によって、何気ない動きの意味が変わって感じられます。

遊ぶ、体を動かす、身の回りのことをする。そこにあるのは、死へ向かう子どもという説明だけでは捉えられない、一人の子どもの日常です。

物語の結末が強く残るほど、節子を「亡くなった幼い妹」としてだけ思い出してしまうことがあります。けれど、終盤の映像は、節子にも動き、遊び、過ごしていた時間があったことを見せています。

失われた命を、死の瞬間だけでなく、生きていた時間から見つめ直す場面とも考えられます。

歌声の美しさは、その時間を穏やかに包むようにも聞こえます。ただ、その穏やかさによって節子が戻ってくるわけではありません。元気な姿を見せられるからこそ、もう続かない日常であることも伝わってきます。

きれいな曲なのに、安心して聞けない。その響き方には、曲だけでなく、節子の死を知ったあとにこの映像を見るという順番が関わっているのでしょう。「埴生の宿」と「Home, Sweet Home」|家を思う曲が響く理由

日本語で親しまれている「埴生の宿」と、映画で聞こえる「Home, Sweet Home」は、同じ旋律につながる歌です。ただし、映画で日本語の歌詞が歌われているわけではありません。

そのため、日本語版の歌詞の意味を、そのまま作中の歌声の説明として当てはめるのは避けたいところです。まずは、映画で使われているのは、家や故郷への思いを歌う英語の歌であると押さえると、物語との関係が見えてきます。

清太と節子は、空襲で家を失っています。さらに母も亡くし、以前の家族の暮らしへ帰ることができません。親戚の家に身を寄せたあと、二人は横穴壕を住まいにしますが、それまでの生活が戻ったわけではありません。

ここで考えたいのは、「家」が建物だけを指すのか、ということです。眠れる場所があることに加えて、帰りを待つ人がいること、食事を共にできること、困ったときに頼れること。そうした関係まで含めて、家という言葉を受け取ることもできます。

兄妹の物語に家を思う歌が重なると、失った建物だけでなく、取り戻せなかった日常まで浮かび上がるように感じられます。

帰る家を思う歌が、帰れなくなった兄妹の時間に重なる。この組み合わせが、終盤の場面を考える一つの手がかりになります。

「埴生の宿」を使うことは、高畑勲の案だった

曲の採用について、岩波書店の連載「ジブリと音楽」で、鈴木敏夫は高畑勲の案だったと話しています。また、使用は絵コンテの段階から決まっていたと説明しています。

出典:web岩波「鈴木敏夫 × 田家秀樹 ジブリと音楽」第3回

ここから確認できるのは、曲が制作の早い段階から、場面の構成に組み込まれていたということです。完成した映像に、雰囲気の合う曲を後から添えただけ、と考えるのは適切ではありません。

一方、「兄妹を慰めるために選んだ」「観客を泣かせるために使った」といった具体的な意図まで、この発言だけで断定することはできません。

制作上の事実として確認できる選曲の経緯と、曲から私たちが受け取る意味は、分けて考えたいところです。そのうえで、蓄音機のある家と、節子が過ごした壕の周囲が音楽によってつながる構成には、どんな効果があるのかを考えられます。

終戦後に聞こえる歌|戦争が終わっても、戻らないものがある

「埴生の宿」が流れるのは、終戦後の時間です。家へ戻る人がいて、レコードをかける暮らしが描かれます。しかし、兄妹の失ったものが、それに合わせて回復するわけではありません。

戦争の終わりは大きな区切りです。それでも、家族を亡くした悲しみや、生活を失った影響まで、その日に終わるわけではない。この場面には、そうした時間のずれを読み取れます。

誰かの暮らしが戻ること自体は、喜ばしいことです。だからこそ、近くにいた兄妹には同じ回復が訪れなかったことが、いっそう重く感じられます。

音楽を楽しめる日常が戻った場所にも、戻ってこない人の時間がある。穏やかな歌声と節子の姿が重なることで、その違いが見えてくるのではないでしょうか。

「戦争が終わったから、これからよくなる」と思いたくなる。でも、間に合わなかった命は戻らないんよな。歌の穏やかさがあるからこそ、その取り返しのつかなさが際立つとも考えられます。

美しい歌が、悲しさだけではない節子の姿を残す

終盤に映る節子は、兄に守られるだけの存在でも、衰弱して横たわる姿だけでもありません。自分で動き、周囲のものに関わりながら、一日を過ごしていた子どもです。

この映像を、単に「悲しい思い出の場面」とまとめてしまうと、そこで示される生活の細かさを見落とすかもしれません。

節子には、食べ物がなくて苦しかった時間だけでなく、遊んだり、何かをしたりする時間もありました。そのどちらも、同じ節子の暮らしです。

歌が流れる間、観客は結末を知りながら、その日常を見つめることになります。元気な姿が映っても、物語が救われる方向へ変わるわけではありません。それでも、節子を最期の姿だけで記憶しないための時間にはなっていると受け取れます。

この受け取り方は、監督が明言した唯一の答えではありません。ただ、歌と映像を一緒に見ると、「どのように亡くなったか」から、「どんなふうに生きていたか」へと目を向けられる場面です。

まとめ|「埴生の宿」は、節子が生きていた時間へつながる曲

『火垂るの墓』の「埴生の宿」は、終盤、池の対岸の家で蓄音機のレコードがかけられる場面から流れます。使われているのは、アメリータ・ガリ=クルチによる英語の「Home, Sweet Home」です。

歌声は、元気だったころの節子を映す一連の映像にも続きます。家へ戻った人たちの日常と、すでに失われた節子の日常が、一つの曲によって重なる構成になっています。

この曲に注目するなら、歌の美しさだけでなく、どこから聞こえ始め、どの映像へ続いていくのかを見ることが大切です。

家を思う歌と、帰る家を失った兄妹。その重なりを意識すると、終盤の場面は、悲しさを強めるだけでなく、二人から失われた暮らしを考える時間としても響いてくるのではないでしょうか。

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