『火垂るの墓』冒頭で結末を示すのはなぜ?清太の語りを考察

『火垂るの墓』は、主人公・清太の死を最初に知らせるところから始まります。これから兄妹の物語を見るという段階で、なぜ、その先にある悲しい結果を明かすのでしょうか。

この構成には、「清太は助かるのか」という結末への関心を、「なぜ、ここに至ってしまったのか」という過程への問いに変える働きがあると考えられます。

ただし、これは構成から読み取れる効果についての考察です。冒頭の演出理由を、そのまま高畑勲監督本人の発言として断定するものではありません。

この記事では、清太の語りから始まる冒頭の特徴を整理し、監督のインタビューで確認できる制作上の考えと、作品から読み取れることを分けて考えます。

※ここから『火垂るの墓』の清太と節子の死を含むネタバレがあります。

『火垂るの墓』の冒頭は、清太が自分の死を語るところから始まる

映画の冒頭では、清太の語りによって、1945年9月21日に彼が亡くなったことが示されます。駅で命を落とす清太を見せたあと、物語は、それ以前の兄妹の生活へとさかのぼります。

この始まり方は、清太と節子のその後を知らずに、出来事を順番どおり追っていく構成とは異なります。観客は、少なくとも清太が生き延びられないという結果を知った状態で、彼の行動を見ていくことになります。

冒頭から過去へ戻る構成は、小学館の作品紹介でも説明されています。

出典:小学館HugKum『火垂るの墓』作品解説

先に分かるのは結果であって、そこまでのすべてではない

ここで分けておきたいのは、「結末を知らされること」と「物語の意味が分かること」です。

清太が亡くなると分かっていても、どのような暮らしを送り、何を失い、誰との関係が変わっていったのかは、まだ分かりません。節子と過ごした時間がどのようなものだったのかも、映画をたどることで見えてきます。

最初に死を示すことは、その人物について知ることがなくなる、という意味ではないのです。

むしろ、結果を先に置かれることで、そこに至る一つひとつの出来事へ目が向きます。「この先どうなる?」に加えて、「このとき、何が起きていたのか」を考える見方が生まれるのでしょう。

冒頭で死を示すと、兄妹の日常の見え方が変わる

悲しい結果を知らずに見るなら、兄妹が笑ったり、工夫して暮らしたりする時間を、その場の楽しさとして受け取りやすいかもしれません。

しかし、冒頭を見た観客は、その時間がずっと続くわけではないと知っています。同じ場面でも、楽しさと、失われてしまうことへの思いが重なります。

日本テレビの公式あらすじにも、二人が横穴壕で生活を始め、苦しい状況の中でも工夫を凝らして過ごす様子が紹介されています。

出典:日本テレビ『火垂るの墓』ストーリー紹介

楽しい時間があっても、安全な暮らしとは限らない

ここからは、構成と生活描写を踏まえた考察です。

二人が一緒にいて、少し楽しそうに見える。そのこと自体を、偽物の幸せと決めつける必要はありません。厳しい状況の中にも、その瞬間の喜びはあったと受け取れます。

一方で、観客は冒頭の結果を知っているため、「楽しそうだから、もう大丈夫」とは思えません。兄妹の気持ちが落ち着くことと、食べ物や居場所を確保して生活を続けられることは、別の問題だからです。

このずれが、見ていて苦しいところなのかもしれません。目の前の二人には笑っていてほしい。でも、その笑顔だけで困難が解決するわけではないと、見る側は知っています。

冒頭で結果を示す構成は、兄妹の楽しい時間を消すのではなく、その時間を守るために何が必要だったのかまで考えさせる、と受け取れます。

高畑勲監督は、原作のどのような構造にひかれたのか

冒頭の理由を考察するうえで参考になるのが、高畑勲監督自身による原作への言及です。

朝日新聞のインタビューを再構成したwithnewsの記事では、高畑監督は、閉じた世界の中で兄妹が死へ向かっていく構造にひかれ、アニメーションで表現することへの意欲を持ったと語っています。

出典:withnews「高畑勲監督が語る『火垂るの墓』」

この発言から確認できるのは、監督が、兄妹の死を最後の驚きとして隠すことだけに関心を持っていたわけではなく、死へ至る物語の構造そのものに注目していたということです。

ただし、このインタビューだけで「だから冒頭をこの形にした」と、個々の演出との因果関係まで確定することはできません。また、監督が構造の説明に用いた「心中もの」という言葉を、兄妹が相談して死を選んだという作中の事実に置き換えるのも適切ではありません。

「助かるか」から「どう生きたか」へ目が向く

監督の発言を踏まえると、冒頭の死を、単に観客へ衝撃を与える仕掛けとして見るだけでは、捉えきれない部分があります。

結果が先に分かっているからこそ、私たちは、その途中にある生活を見ることになります。清太が何を選び、節子とどう過ごし、暮らしがどのように行き詰まっていくのか。その過程が、物語の中心として浮かび上がるのです。

「最後に助かってほしい」と願う気持ちは、結果を知っていてもなくならないでしょう。それでも映画は、その願いをかなえる展開ではなく、二人が生きた時間へ観客を戻していきます。

そして、もう一つ気になるのが、その物語を清太自身の声で始めることです。清太の死を誰かが説明するのと、本人が語るのとでは、私たちと物語との距離も変わってきます。清太自身が語ることで、「死んだ少年」が一人の人間になる

冒頭で清太の死を説明するだけなら、第三者のナレーションで伝える方法もあります。しかし、この映画では、清太自身の語りから物語が始まります。

その違いは、観客が誰の言葉として出来事を受け止めるかにあります。亡くなった少年について外から説明を聞くのではなく、その少年の声を聞くところから、私たちは物語に入っていくのです。

ここからは、語り方が生む効果についての考察です。

自分の死を語る声があることで、清太は「戦争で亡くなった子ども」という説明だけでは収まらない存在になります。これから映し出されるのは、名前を持ち、妹と暮らし、判断したり迷ったりした一人の少年の時間なのだと意識させられます。

物語の中で生きる清太と、それを振り返る清太

自分の死を過去の出来事として語る始まりには、出来事を経験している清太と、その結果を知っている語り手としての清太という、二つの位置があります。

過去の生活を送っている清太は、これから起こることをすべて知っているわけではありません。一方、観客は冒頭によって、その先に死があると知らされています。

そのため、過去の清太が何かを決めるたびに、見る側との間には知っていることの差が生まれます。清太には目の前の選択でも、観客には、すでに示された結果へつながる出来事として見えるのです。

ただし、この構成を理由に、映画のすべての映像が清太の記憶だけでできているとか、描写のすべてが本人の主観だと断定することはできません。語りの出発点と、各場面がどのように描かれているかは、分けて考える必要があります。

結末を知っている観客は、清太より多くを知っている

冒頭の構成を考えるとき、気をつけたいのが、観客が持っている情報です。

私たちは映画を見ながら、「その選択では危ない」「別の方法を探してほしい」と思うことがあります。しかし、その思いには、兄妹の生活が行き詰まると先に知っていることも影響しているはずです。

結果を知ったあとなら、途中の出来事を失敗の兆しとして並べることはできます。それでも、出来事のただ中にいる人物が、同じ見通しを持てるとは限りません。

「こうすればよかった」と考える前に

清太の判断を考えることには意味があります。ただ、その際には、「別の選択肢があったか」と、「清太がその選択肢を知り、実際に選べたか」を分けたいところです。

日本テレビの公式紹介では、清太は14歳、節子は4歳と説明されています。見る側が物語全体を見渡せるのに対し、清太は、妹とともにその状況を生きている少年です。

出典:日本テレビ『火垂るの墓』登場人物紹介

「自分やったら、もっとうまくできたやろか」と考えるときも、結末を知った今の自分と、先の見えない清太を、そのまま比べることはできないんですよね。

冒頭で結果を知らされているからこそ、観客は、自分の判断が「先を知っている立場」からのものだと意識する必要があるのではないでしょうか。

冒頭は、悲劇を最後の驚きとして受け取らせない

もし清太の死が最後まで伏せられていたら、観客は、生き延びる可能性を追いながら物語を見ることになるでしょう。そして最後の死を、大きな展開として受け止めるかもしれません。

実際の映画は、先にその結果を示します。そのため、死そのものを知って驚くことよりも、そこへ至る生活を見続けることが求められます。

これは、観客の悲しみをなくす構成ではありません。結果を知っているからこそ、何気ない時間がつらく感じられることもあります。ただ、悲しみの生まれ方が、最後に突然知らされる場合とは異なるのです。

「かわいそうだった」で閉じられるのか

高畑監督は、朝日新聞のインタビューで、戦争の被害の悲惨さを語るだけの映画では、これからの戦争を防ぐうえで無力だとも述べています。また、見る人を心地よく感動させることと、問題を伝えることの関係にも厳しい目を向けています。

出典:withnews「〝悲惨〟だけを伝える映画は無力 高畑勲監督が語る『火垂るの墓』」

この発言を、冒頭の演出意図への直接の回答とすることはできません。それでも、作品を悲しい話として受け止めたあと、何を考えるかという点では参考になります。

清太と節子がかわいそうだった。その気持ちは自然なものです。ただ、そこで終わらず、二人の暮らしを支えるものがなぜ失われたのか、幼い兄妹だけでは何を担いきれなかったのか、という問いも残ります。

冒頭で死を知った観客は、結果を変えることができません。だからこそ、すでに失われた命へ向けて、どうしてこうなったのかを考え続ける。その見方を促す構成として受け取れるのではないでしょうか。

まとめ|冒頭の清太の語りは、結末よりも過程へ目を向けさせる

『火垂るの墓』は、清太が自分の死を語り、その後に兄妹の過去へ戻る構成になっています。

この始まり方には、「助かるかどうか」という結果への関心に加え、「なぜ、ここへ至ったのか」「二人はどのように生きたのか」へ観客の目を向ける働きがあると考えられます。

また、清太自身の声から始まることで、彼は単に悲劇を説明される人物ではなく、自分の時間を語る存在として私たちの前に現れます。

冒頭で結末が分かっても、二人について分かったことにはならない。その先の映画は、失われた命が、どのような時間を生きていたのかを見つめる物語として受け取れます。

これは構成からの考察であり、監督が冒頭の理由をこの言葉で説明したという意味ではありません。それでも、最初に死を示されたからこそ、途中の笑顔や迷い、日々の選択が重く感じられる。そのことが、この映画の始まり方を考える手がかりになると思います。

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