『火垂るの墓』について、高畑勲監督が「反戦映画ではない」と語ったと知ると、意外に感じるかもしれません。戦争によって幼い兄妹の暮らしが壊れていく映画なのに、なぜそのように説明したのでしょうか。
発言の中心にあるのは、戦争の悲惨さを描き、見る人が平和を願うことと、これから起こる戦争を防ぐことの間には、隔たりがあるという問題意識です。
高畑監督は、戦争がもたらした被害を伝えることに加え、戦争を始める論理や、それを止められなくなる社会の動きに目を向けていました。
この記事では、監督本人の対談とインタビューをもとに、この発言の文脈を整理します。「反戦映画ではない」という短い言葉だけで、作品の意味や監督の立場を決めつけずに読んでいきましょう。
※この記事では『火垂るの墓』の基本的な物語設定と、兄妹の結末に触れます。
高畑勲は本当に「反戦映画ではない」と語った?
高畑監督が『火垂るの墓』を反戦映画と呼ぶことに異論を述べていたことは、本人の対談から確認できます。
確認できる資料の一つが、月刊『同朋』2015年8月号に掲載された、戸次公正氏との対談です。2018年に、しんらん交流館の公式サイトで再掲載されています。
その中で、高畑監督は次のように述べています。
「ああいう作品が反戦映画とよばれることには異論があります。」
出典:しんらん交流館「高畑勲監督の対談をご紹介【月刊『同朋』誌2015年8月号より】」
ここで大切なのは、引用のあとに、その理由が続いていることです。作品の分類だけを訂正する発言として読むと、監督が何を問題にしていたのかが見えにくくなります。
なお、この対談の初出は2015年です。再掲載ページの日付である2018年と混同しないようにしたいところです。
短い言葉だけでは、理由まで伝わらない
「反戦映画ではない」という表現だけを見ると、戦争を批判する気持ちがなかったのか、と受け取る余地があります。
しかし、対談全体では、戦争を防ぐために何を学び、どのような社会の動きに注意するべきかが語られています。その文脈から切り離して、監督が戦争に無関心だったという説明につなげることはできません。
監督が問い直しているのは、悲惨な戦争を描いた作品に、どこまで戦争を防ぐ力を期待できるのかという点です。
映画を見て戦争は嫌だと思った人にとっては、少し厳しい問いかもしれません。でも、その気持ちが生まれたことと、現実に戦争へ向かう流れを止められることは、確かに同じではないんよな。
戦争の悲惨さを伝えるだけでは、なぜ足りないのか
この問題意識は、朝日新聞による高畑監督への取材を再構成した、2025年公開のwithnewsの記事でも確認できます。
記事は、その公開時点から約10年前に行われたインタビューを振り返るものです。2025年に新しく行われた取材ではありません。
そこで高畑監督は、過去の空襲や戦争末期の被害を示すことが、そのまま将来の戦争を防ぐ力になるとは限らないと説明しています。
理由は、戦争を進める側もまた、悲惨な被害を避けるために備えが必要だという論理を使うからです。
出典:withnews「〝悲惨〟だけを伝える映画は無力 高畑勲監督が語る『火垂るの墓』」
ここからは、監督の説明を受けた整理です。戦争が悲惨だという認識を持っていても、人は「その悲惨さから自分たちを守るため」という説明に賛成する可能性があります。
つまり、悲惨な結果への恐怖だけでは、行動の方向が一つに決まらないということです。戦争を避けたい気持ちが、どんな説明によって別の方向へ動かされるのか。その過程を考える必要があるのでしょう。
映画を見た感情と、社会の判断をつなぐ難しさ
清太と節子の姿から、戦争への恐ろしさや悲しさを感じることには、その人自身の体験としての重みがあります。
ただ、その感情が、具体的な判断を自動的に教えてくれるわけではありません。誰の説明を信じるか、何を危険と捉えるか、どの選択が被害を防ぐと考えるかによって、人の行動は変わります。
この点を考えると、監督の発言は、映画を見て生まれた気持ちを現実へどうつなげるか、という問いとしても読めます。
悲しかった、忘れたくない。その先で、何を調べ、どう考えるのか。作品から受け取ったものを大切にするなら、そこまで考え続ける必要があるのかもしれません。
「反戦映画」の呼び方と、作品を見た人の受け止め方
ここでは、監督の発言と、観客の受け止め方も分けておきたいところです。
ある人が『火垂るの墓』を見て、戦争に反対する気持ちを強く持つことはあり得ます。その人にとって、作品が平和を考える大切なきっかけになることもあるでしょう。
それと同時に、高畑監督は、その効果だけで将来の戦争を防げるのかを疑っていました。
観客が作品から受け取った反戦の思いと、監督が作品の社会的な働きに向けた厳しい見方は、分けて理解することができます。
監督の言葉を知ったからといって、自分が映画から感じたことを取り消す必要はありません。一方、自分が強く心を動かされたことだけを理由に、監督も同じ意味で作品を説明していたと決めることもできません。
「自分はこう受け取った」と「監督はこう語っている」を並べて考える。そのほうが、短い呼び名に収めるより、作品との関わりは深くなるのではないでしょうか。高畑監督が、戦争を防ぐために学ぶべきだと語ったこと
高畑監督の問題意識は、悲惨な結果に目を向けることから、そこに至る過程を調べることへ広がっています。
月刊『同朋』の対談では、戦争が始まった理由や、終わらせられなかった経緯、他国への加害、そして普通の人々の行動も学ぶ必要があると述べています。
出典:しんらん交流館「高畑勲監督の対談をご紹介【月刊『同朋』誌2015年8月号より】」
これらは、戦争が起きたあとの被害を知ることに加えて、被害が生まれる前の判断を検討する視点です。
戦争を嫌だと思っていた人が、どのような説明を受けて協力するようになるのか。途中で状況が変わっても、なぜ判断を変えられないのか。そうした問いに向き合うことが、監督にとっては重要だったのでしょう。
悲惨な結末を知っていることと、その結末に向かう途中で立ち止まれることは、別の問題です。
結果を知る立場から振り返れば、間違いに見える判断もあります。しかし、その場にいる人たちには、別の言葉や理屈で説明されていたかもしれません。そこまで調べることが、過去を現在の判断につなげる手がかりになると考えられます。
被害の記憶と、加害への問いを両方持つ
withnewsに掲載されたインタビューでも、高畑監督は、日本が受けた空襲などの被害に関心が集中する一方、日本軍が国外で行ったことへの理解が十分ではないと問題を指摘しています。
出典:withnews「〝悲惨〟だけを伝える映画は無力 高畑勲監督が語る『火垂るの墓』」
この発言を、清太と節子の苦しみを軽く扱う言葉として受け止める必要はありません。兄妹の被害を見つめながら、映画が描く範囲の外にも歴史があると意識することはできます。
一つの作品が、戦争のすべてを描くことはできません。だからこそ、映画から何を知ったのかと、映画だけでは何が分からないのかを、両方考える必要があるのでしょう。
兄妹の悲劇に心を動かされた。その気持ちを入り口にして、描かれていない場所や人のことも調べてみる。そうした見方なら、作品の重みを受け止めながら、歴史への関心を広げられます。
では、『火垂るの墓』には何を描こうとしたのか
「反戦映画ではない」という言葉だけに注目すると、監督が作品を通して伝えようとしたことまで見えにくくなる場合があります。
高畑監督は、原作にひかれた理由として、兄妹が閉じた世界の中で死へ向かう構造に、映像表現の可能性を感じたと説明しています。
また、月刊『同朋』の対談では、死者が語り手であることにも言及しています。亡くなった人の視線を感じながら生きる感覚が、映画化への関心につながっていたと語っています。
こうした発言から確認できるのは、監督が、兄妹の生と死、そして死者と生きている人との関係にも目を向けていたことです。
ただし、これらの説明も、映画の意味を一つに固定する答えではありません。制作に関する本人の言葉を手がかりに、作中の描写を考えるためのものとして読むのがよいでしょう。
兄妹を大切に思う気持ちと、社会を見る視点
ここからは、発言を踏まえた考察です。
清太と節子を見ていると、二人が一緒にいられることを願いたくなります。しかし、その願いだけでは、食料や住まい、周囲との関係といった生活の条件は整いません。
二人を大切に思うほど、二人の気持ちだけで生きられるわけではないことにも、目を向ける必要が出てきます。
このように、登場人物に寄り添うことと、その人物を取り巻く状況を考えることは、両方あってよいはずです。監督の発言を読むことは、感情移入した自分を少し離れた位置から見直すきっかけにもなります。
「かわいそうやった」で終わらせたくない。でも、かわいそうと感じた気持ちまで捨てる必要もない。その気持ちを持ったまま、なぜこんなことになったのかを考える。そこに、見る側が続けられることがあるのかもしれません。
「反戦映画ではない」という言葉を読むときの注意点
今回確認した資料では、発言の表現や、その場で話している内容に違いがあります。
月刊『同朋』の対談では、反戦映画と呼ばれることへの異論と、戦争を防ぐための学びが語られています。withnewsのインタビュー記事では、被害を伝える映画の限界や、映画表現への考えが説明されています。
一つの資料から短い言葉を取り出し、別の資料の説明をつなげて、すべてを一続きの発言のように扱わないことが大切です。
また、2015年の対談には、当時の政治や社会への意見も含まれています。現在の状況への発言と混同せず、いつ、どのような話題の中で語られたのかを確かめる必要があります。
本人の発言、記事の見出し、後年の人による解説は、それぞれ役割が違います。作品について考える際も、誰の言葉なのかを分けて読むことで、意味の取り違えを減らせます。
まとめ|戦争の悲惨さを知った、その先を問う発言
高畑勲監督が『火垂るの墓』を反戦映画と呼ぶことに異論を示した背景には、悲惨な被害を伝えることだけで、将来の戦争を防げるのかという疑問があります。
監督は、戦争を始める理由づけや、終わらせられなくなる過程、人々が協力していく動きにも関心を向けていました。また、映画では兄妹の生と死、死者の視線を感じることも大切にしていたと説明しています。
「反戦映画ではない」という言葉は、映画が伝えた悲しみを受け止めたうえで、その感情を現実の判断へどうつなげるのかを考える手がかりになります。
観客が作品から平和への願いを受け取ることと、監督が映画の力を厳しく見つめていたこと。その両方を押さえると、発言の意味を丁寧に読めます。
映画を見て何を感じたか。そして、そのあと何を知ろうとするか。高畑監督の言葉は、その続きを見る側に問いかけているように思えます。

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